2024/03/19

ワーカホリックだった自分の価値観が変わるまで。 ~25歳、あの頃の自分 李 成一さん

WHEN I WAS 25 -25歳の、あの頃-
#李成一#経営者#キャリア形成

現在のキャリアで活躍しているあの人も、憧れの職種のプロフェッショナルも。25歳の頃は“はたらく”について何を考え、何に悩んでいたかを掘り下げるこの企画。橋の上からは屋形船が停泊している風景を眺めることができる東京の下町に、国籍も、年齢も、職業も異なる人たちが集うボーダレスハウス浅草橋1があります。そんな背景の異なる人々がひとつ屋根の下で暮らすシェアハウスを50棟以上経営しているのが、ボーダレスハウス株式会社の代表を務める李 成一さんです。

<李 成一年表>

1981
大阪府で生まれる
1994
朝鮮学校にて中学・高校生活を過ごす 
1999
近畿大学入学
2000
大学生活にて朝鮮学校との違いにカルチャーショックを受ける
2003
グダグダの就職活動。裁量の大きさに惹かれ、株式会社ミスミを第一志望に
2004
株式会社ミスミに新卒で入社
★2006
仕事をすればするほど社内で評価をされるワーカホリックな日々
2008
社内調整の仕事が多くなり、現場に携われないことにモヤモヤ
2011
代表の田口らのビジョンに共感し、ボーダレスへ合流
2012
BORDERLESS KOREAを立ち上げ

キャリアの原点は、マイノリティとして過ごした10代の記憶


李さんに“25歳のころの自分”について尋ねると、「新卒でミスミという会社に入社して2、3年目ですよね。仕事をすればするほど社内で評価もされてワーカホリックのような働き方をしていた頃かな...」と振り返りながら話してくれました。一部上場企業で入社当初から高い評価を得ていたにも関わらず、どうして29歳というタイミングで転職という選択をしたのでしょうか。そこには在日外国人コミュニティの中で育ち、はじめて日本人と接するまでの10代の記憶が大きく影響していると言います。

「僕は在日コリアンとして大阪で生まれて高校まで朝鮮学校に通ったのですが、当時はすごくクローズドなコミュニティだったんです。もちろんマイノリティとして生活を送ることにはなるのですが、狭いコミュニティの中にいると自分たち中心に世界が回っているような感覚になるというか。なので大学に進学して初めて日本人の方々と接するようになって、“在日コリアンについてみんな知っているものだ”と思っていたのに全く知られていなかったり。在日コリアンも含めて、外国にルーツを持つ人のことを全然知らないんだな、ということがまず驚きとしてありました。ただそのおかげというか、異なる人種として生まれ育った、ということが僕にとってはひとつの個性になったんです」

インタビューの数十分だけでも感じ取ることができる明るいキャラクターも手伝って、「高校の修学旅行先が北朝鮮で...」などなど、複数の“鉄板ネタ”を駆使しながら、新たな出会いにあふれる大学生活を送ります。

新卒で東京本社の一部上場企業を選んだ


もう少し勉強をしておけば...(笑)、とも振り返る大学生活を経て、新卒で入社したのはFAなどの部品を扱う商社、株式会社ミスミ。入社後は「スーパールーキー」と呼ばれるほどの活躍を見せる李さんですが、実は就職活動はグダグダだったというエピソードも。

「実は第一志望は別の総合商社だったんです。だけどエントリーシートの提出が期限に間に合わなくて(笑)。僕の就職活動はそれくらいグダグダ。いつかは韓国に駐在したいという思いがあったので、それなら商社かな? という本当に単純な発想で企業を見ていました。ただ選考が進む過程でミスミが第一希望になったんです。それは面接で会う人もそうですし、リスペクトできる人がたくさんいたので」


そうして入社したミスミでは、1年目から裁量の大きな仕事を任されることも多かったそう。

「ミスミという会社の大きな魅力のひとつに裁量の大きさがあるんです。僕が配属されたのは商品開発の部署だったのですが、企画をしてサプライヤーさんと交渉をして、マーケット調査をしながら価格設定をして収益も見る。この一連の流れを1年目であっても任されるんです。当時は知的体育会系と謳って、18時からが本番だ、という空気のあるとてもハードな環境だったのですが、経営者的な視点でビジネスを考えることを含めて、今僕が持っているスキルのほとんどはミスミで培ったと思っています」

キャリアに悩んでいるタイミングで訪れた同期との飲み会が転機に


一部上場企業で結果を残し、活躍をしている自分。さらに「商社マン」というブランドも手にして、20代で築いてきたキャリアにプライドを持っていた李さんが、なぜそれを手放してボーダレス・ジャパンに合流することを決意したのでしょうか。

「25歳くらいの自分を振り返ると、社内で評価をしてもらっていて、調子に乗っていた部分もあったかもしれません。ほとんどの時間を仕事に費やしていたし、朝鮮学校出身者、在日コリアンを代表してココにいる、という勝手な責任感もありました。僕の残す結果やイメージが次の世代の後輩たちに良くも悪くも影響する。だから一生懸命働いたし、実績も作って日本社会に適応できるんだっていうことを証明したかったんです。ただ20代の後半は、葛藤が生まれてきてもいました」

29歳でボーダレス・ジャパンに合流することになる李さん。キャリアに迷いが生じてきたのは27、28歳くらいから。


「それくらいのタイミングから、社内を調整する仕事が多くなってきたんです。“誰を見て仕事をしているんだろう...”みたいな。20代前半のころの仕事に燃えて顧客ニーズと向き合って実績を出すことにフルコミットして、という状況とは変わってきてたんですね。仕事に対する充足感という意味でいうと、当初より下がっていたと思います。そうはいっても転職を現実的に考えていたわけでもなかったんです」

そんなとき、ミスミを退社してボーダレス・ジャパンを立ち上げた田口氏を含めた数名で飲みに行く機会が訪れる。「そこでお誘いが?」と聞くと、「向こうは誘ってないって言うんですよ」という笑い話も。

「ボーダレス・ジャパンは2007年に立ち上がって、ボーダレスハウスも2008年には運営がスタートしていたんです。ボーダレスハウスが軌道に乗り始め、これを海外展開していこうって話があったときに、“李ちゃんに入ってもらって、やってもらえたらいいよね”みたいなことにはなっていたらしいんです。ただ立ち上げたばかりで給料もちゃんと払えるか定かではない状態で、僕がミスミでうまくやっているのを見ていたので“誘ってはいない”ということらしいのですが(笑)。実際に話を聞いてみると、彼らが考えている世界観や、始まったばかりのシェアハウスの話など、自分が今の会社で海外駐在をするよりも、こっちのチャレンジの方が僕のビジョンと一致するな、と思ったので話を聞いてからはあまり悩まずにジョインすることに決めました」

なにをしているときが一番楽しいのか?をこれからの基準に


ボーダレス・ジャパンに合流してからは、ボーダレスハウスのプロモーション担当、事業統括、BORDERLESS KOREAの立ち上げ・支社代表を経て、完全独立子会社として再出発したボーダレスハウスの代表に就任と、ミスミ時代に続いて結果を残し続けてきました。しかしここ数年は働き方を見直す時期でもあるようです。

「ミスミで社内業務が増えるまではそれこそワーカホリックのような勢いで働くことで結果を出してきました。それが内部調整が多くなり、結果的にボーダレス・ジャパンに合流することになるのですが、合流した直後は解き放たれたかのようにガンガン働いたんです。韓国の立ち上げの時も現地のメンバーには“ワーカホリックだ”と言われて、台湾でもおなじようなことがあって。いろいろな国の多くの価値観に触れて、自分のやり方が“普通”なわけではないと教えられました。ただ成し遂げたい目標を考えるとやらないわけにもいかない場面も多いので、そのあたりをどう折り合うようにやっていくか、というのが今の課題のひとつです」


29歳で転職をして、今年で42歳を迎えた李さん。少し答えにくいであろう、「この先もこの会社に居続けると思いますか?それともこの先違う選択肢があるかもしれないですか?」という質問にも、真摯に答えてくれました。

「基本的には自分のやりたいことは代表を務めているボーダレスハウス株式会社で実現したい、と思っているんです。でも正直コロナ禍では迷いも生まれました。会社がうまくいかなくなって自分じゃない人が経営者になったほうがいいんじゃないかとか、自分自身を生かせてないんじゃないかとか...。ただようやくコロナ禍も落ち着いて、苦しい時期を乗り越えることができたので。関わってくれてるみんなの力に頼りながら、やり続けるんじゃないかなと思います」

自身がマイノリティとして生まれた、というルーツを持ち、今実際にたくさんの国籍の人が集まるシェアハウスの代表として活躍している。“こうでありたい”という目標を叶えた今、仕事に求めるものを尋ねると、数秒の逡巡の末に出した答えは「自分が楽しいかどうか」でした。


「メンバーの成長や会社の成長、メンバーの給与が上がっていくこととか、経営者としての目標は当然あるとした時に、それとは別の軸として、“自分がなにをしている時が一番楽しいか”っていうのはすごく大切になってくると思います。この1階のカフェを始めてイベントを開催したりしているんですけど、やっぱり僕は目の前の人同士でコミュニケーションができる場を作るのが好きだし、それが広がっていくのがうれしいんです。その仕事をしているときの自分が幸せか、というのはこれからも大切にしたいと思っています」

プロフィール

李 成一

ボーダレスハウス株式会社 代表取締役

り・せいいち/1981年 大阪府出身。 韓国人の祖父を持つ在日コリアンとして生まれ、小学校から高校まで朝鮮学校に通うなかで、周りで過ごす多くの人と自分の「違い」を痛感するように。大学卒業後は株式会社ミスミに入社。スーパールーキーと呼ばれるほどの結果を残した。2010年29歳の時にミスミ時代の同期が立ち上げた株式会社ボーダレス・ジャパンに合流し、2017年ボーダレスハウスの代表に就任。「全ての人が、差別されることなく、自分の生い立ちやルーツに誇りを持って生きられる社会をつくりたい」と志し、現在50棟以上のシェアハウスを運営している。 <わたしの職務経歴書> これから シェアハウスにこだわらず、新しいサービスや拠点を通じて、異文化交流の関係人口を増やし、多様な異文化交流のカタチを追求していきたい。 2019〜今 ボーダレスハウス代表 2012 BORDERLESS KOREA設立 日本と韓国を行き来する日々 2011 株式会社ボーダレスジャパン 代表田口氏の誘いでジョイン 2004〜2010 株式会社ミスミ 「スーパールーキー」と呼ばれ、ワーカホリックに 2000〜2004 近畿大学 朝鮮学校との違いにカルチャーショックを受ける 1999 朝鮮高等学校 クローズドなコミュニティでが宇生時代を過ごす <これまでに挑戦したこと> ・ボーダレスハウスのプロモーション担当・事業統括 ・BORDERLESS KOREAの立ち上げ ・50棟以上のシェアハウスを経営

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